寄稿・「西高新聞部時代の思い出」 門田 宰氏(43期)
西高新聞部時代の思い出 門田 宰(43期)
西高入学が決まってすぐに、中学時代の山根賢一郎先輩が自宅を訪ねてきた。西高でも先輩になる山根氏は「西高新聞の編集がすぐに始まる、取材につきあえ」、と言う。まだ入学式前のことである。
ということで、部活は入学前から始め、2年間で終了。
当時、西高では「新聞部」ではなく、生徒会とは別の、「新聞編集委員会」となっていた。「委員会」であれば、選任されなければいけないと思うのだが、基本的にはクラブ活動と同じで、自主参加、ただし活動費は、「新聞代」として、生徒全員からいくらか徴収、後は広告代でやっていた。以後面倒なので「新聞部」という書き方にする。
当時の部室は、運動場の東南角、音楽室の北屋外にあった。部室は板壁で半分に仕切られ、半分は演劇部、もう一部屋を新聞部と文芸部が共同で使っていた。私が三年生の時だっただろうか、校舎内のトイレを改装した単独の部室が与えられた。部室が教室に近かったこともあり、ほとんど部室にいたように思う。
新聞は年5回発行。夏休み等考えると、実に2か月に1回発行。いつも発行作業に追われていた。原稿集めから広告のお願い。広告をいただくために、茶山通り、豊前田通り、唐戸の商店を、一年の時は先輩と、二年になると後輩と夜遅くまでお願いに回って歩いた。
記事も、できるだけ生徒の声を反映させようと、依頼記事を集めたり、アンケート記事を載せたりしたが、依頼記事、アンケートに頼りすぎだという批判が生徒会の会報に出た。生徒大会の時に、反論の意見を述べたことがある。
原稿が集まり次第、内容チェック、誤字修正、紙面の割り付けをし、御裳川にある印刷所に持って行く。今の様にパソコンで紙面を作るわけではない。活字を拾い、紙面を組む。大きな飾り文字の見出し、写真は、凸版を作る。日を改め、ゲラ刷りの校正に行く。原稿が正確でも、活字を組む時点での間違いも起きる。見出しがまずければ、凸版を作り変えなければならない。その分費用がかさみ、時間もかかる。
当時南高の新聞も同じ印刷所で印刷していた。たまに印刷所で南高の新聞部員と一緒になることがある。ゲラ刷りが上がってくるまでの時間、休憩所に置かれていた卓球台で一緒に卓球をすることが楽しみだった。今考えてみれば、休憩所とはいえ、社員が仕事をしている最中に卓球をしていることは不謹慎だったかもしれない。
西日本新聞主催の「高校新聞コンクール」があり、何度か入賞した。ただ金賞は一度もない。年に何度か、市内の各高校の新
聞部員が集まり、「高校新聞批評会」というのが、各校持ち回りで行われた。紙面の出来具合を批評しあうのだが、ある時、私がT高校の記事の内容を批評した。その時、「内容について他校にとやかく言われたくない、紙面の割付等けにして欲しい」と言われたことがある。二年生になってすぐだったか、県内の大津高校新聞部からの訪問を受けた。女子3人、男子2人。どういう話をしたのかは全く覚えていない。
中国新聞社から、「高校生の大学訪問」という内容の連載をするので、記事を書いて欲しいとの依頼があった。「水産大学校」を訪問し、記事を書くということだ。一年生の佐中君と水産大学を訪問し、学長と面談。この時、中国新聞の記者と、顧問の先生は当然同行したと思うのだが、何故か記憶に残っていない。掲載された新聞も残っていない。新聞社には残っているだろうが。
私が編集長としての最後の新聞は1965年2月24日発行の97号である。この年卒業生を送る先生の写真を、初めて似顔絵にした。一~三組の担任を吉沢茂木君、四~六組を安田好幸君にお願いした。100号の発行は1965年11月。二年生の佐中君が編集長で、私はタッチしていない。ただ、短評欄の「頓珍感」を書かせてもらった。何年か前、号数を一つ飛ばして発
行したため、今回の100号は、実際には99号だと書いた。
部室には古い西高新聞が残っていなかった。100号発行に当たり、過去の新聞を探そうと、南高の新聞部室を訪ねた。部室には共学時代のかなり古いものが残っており、許可を得て2部ずつ持って帰った。と言っても部室に保管できないので、整理して下田衛先生にお願いし、図書館で保管していただくことにした。三年生の12月、南高新聞部と合同で、八幡の皿倉山に行った。写真を見ると、西高9人、南高10人(内先生1人)。ハイキングにも関わらず、こちらは全員が学生服。最初で最後の合同行事だった。これが西高新聞部での最後の活動となる。